日本の🏳右翼、ナショナリズム、保守思想まとめ.
🎓水戸学
儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想.
[AIDA] 対談:片山杜秀×松岡正剛 Vol.2 ─“革命的な”保守思想としての水戸学、あるいは三島由紀夫の切腹
👨西部邁
なにかとこの人の話がでてくる. 昭和世代の保守思想のドン.
📚虚無の構造 - 西部邁(1989)
🛕保守主義をニヒリズム克服の鍵に論じる書籍.
近代社会が伝統的価値を否定し、進歩主義や合理主義の名のもとに個人主義を推し進めた結果、人間の生きる意味や目的が喪失してしまった.
マルクス主義やリベラリズムに対する批判を展開し、自由や平等といった近代の理念が、結局のところ虚無を生み出す要因となっている.
<2025-02-06 Thu 18:55> 図書館で借りたけど時間かかりそうだったから読まずに返しちゃった. ただ、2025のテーマは政治思想や社会思想をキーワードにニヒリズムへの理解を進めることなので、これは消化するべき書籍だ.
📚国民の歴史 - 西尾幹二
平成ベストセラー. 新しい歴史教科書をつくる会.
いったい、自由とは何か?
自由はそれだけではおよそなにものでもない。そもそも不自由の自覚に突き当たらないかぎり、人間は自由を得られない。
われわれを直接に抑圧するものは何もない。そのあげく、個人の生き方は、ますます頼りなく、偶然に支配されるような傾向が増えてゆく。個人は空虚に向かって、開かれた何もない空間をたださまよって生きているような、無性格の傾向をますます深めている。見渡す限り明るくなっているにもかかわらず、私たちの生はあてどなく、人格的な意志を欠いている。確かなものを求めるためには、それも当てにはならないのだが、内面の暗部へとでも降りていくほかには仕方がない。光あるだけで、影のない世界は残酷である。人間は平板化し、無力化する世界への果てしない単調さは、底抜けに恐ろしい。われわれは深く底抜けに「退屈」しているのである。
ハイデッガーは「形而上学の根本諸概念」の中で、退屈の概念を三つの形式に分類した。
第一は、「殺風景な片田舎の駅で列車を4時間待つ」の例に示される、誰もが経験する手持ち無沙汰のことである。第二は、「仕事を中断して人の家に客として招待され、晩餐にあずあり、ワインを飲み、談笑し、深夜になって帰宅して、出かける前に中断した仕事の前に座ると、ふと・・・楽しかったけど、あれはやっぱり本当は退屈していたのだ・・という思いが脳裏をかすめる」。しかし、いずれにしろ、音楽を聴くなり、本を読むなりして、新たな刺激によって状況を取り替えることが可能なのである。
しかし、第三の倦怠は、われわれの存在そのものを覆っている全体的な何かある説明できない倦怠、けだるさの感覚である。これは、危機に瀕している人間存在の本来的なあり方からの呼びかけであり、救済を求めるシグナルなのである。たとえば、「日曜の午後、大都会の町々を歩いていて、思いがけず突然なんとなく退屈になる」。このなんとなくというところが大切で、なにかのきっかけがあって退屈になるのではない。状況は関係がない。いったいそうなったときはなにを見てもなにをしても、心楽しまない。どことなくすべてが空虚である。存在の深いふちに沈黙したまま、霧のように去来しつつたなびく不気味な痛み・・・そのような退屈に対してはどんな時間つぶしも考えられない。
この退屈はなにかのきっかけで、ふと自分が言い知れぬ生への無意味の中に置かれていることに気がつく・・・あるいは漠と予感する瞬間である。それは説明のできない気分のようなものであり、何か冷たいものに触れたときの刹那の知覚にも似たものであったりもするかもしれない。何か全体的な無意味の雰囲気に自分がすっぽり包まれているような、言いようもない不気味な感情のことを示唆しているつもりである。言い知れぬ空虚感、時間の彼方に何か黒々とした深い闇があって、自分がベルトコンベアーに乗せられて、いやおうなしに前へ前へ通されていく徒労感、それでいて抗しがたいものから身を引き離そうとすると、目の前に小さな仕事やささやかな楽しみごとによって、一時的に非難する「忘却の知恵」以外に方法を知らないもどかしさ、そんなふうに言ってみても、やるせない思いがし、何をしてもなにを見てもつまらないこの倦怠の感覚を、私はうまく説明することができない。
いったい、人は自由という思想に本当に耐えられるほど強い存在なのであろうか。この生存の根底に横たわっている退屈にも耐えて、根底からの呼びかけに応答し、どんな場合にも毅然と立っていられるようにせよということは、ひょっとすると人間は神になれと要求していることにも近いのかもしれない。