カント倫理学

🎓義務論

📝定言命法

無条件に「すべし/なかれ」という命令形式.

📚純粋理性批判 - カント


大学の一般教養の授業で読むことになった。つかれた。へとへとだ。バカ難しかった。何しろ、哲学書の中でも特に難しいのがこの本だ。大学の般教で読ませるほうがどうかしている。生徒を何だと思ってるんだ!

なんとなく理解はできた。達成感がある。要するに、幸福を求めて生きればよいわけだ。しかし、僕は幸福というものがいまいち納得できない。 21:28 2006/07/21

Literature Notes

形而上学は危機に瀕している。合理論は独断主義に、経験論は懐疑主義に陥ってしまった。形而上学は人間理性の一切の能力を超えているのだ。哲学の義務は、誤解から生じたまやかしを除くにあった。したがって、私がここになすことは、人間の理性能力一般を批判し、形而上学の源泉、範囲および限界の規定である。

すなわち、「学としての形而上学は可能であるか」である。

(そこで、カントはまず人間の認識のメカニズムの解明に取り組んだ。それは、経験的素材を人間の純粋理性が能動的に整理することにより知識が成立する、というものである。(対象⇒直観⇒感性⇒悟性⇒理性の順)これで、形而上学の中の存在論が片付いた。次に、霊魂論、宇宙論、神学の批判に入る。(この三つは特殊形而上学という)すなわち、魂の不死、宇宙の無限性、神の存在は人間の理性では証明不能であることを明らかにした。これにより、形而上学が学として成り立たないことを示した。)

理性を使用することの究極目的は、意志の自由、心の不死、および神の存在の証明である。しかし、今までの議論により、その可能性は否定された。けれども、学問としては成り立たなくても、信仰としてなら成り立つのだ。私は、道徳的に、これらを確信している。

私たちは一定不変の自然法則に従って行動している。それでも、意志の自由を確信するとはどういうことか。それは、道徳的法則が自然法則と重なるように行動する、ということだ。道徳的法則とは、幸福(われわれの一切の傾向を満足させること)に値するということだけを動因とするような自由意志の法則である。すなわち、

「幸福を受けるに値するように行動せよ」、ということである。

このとき、私たちは完全に自由になり、かつ、必然的に行動しているのである。

📚啓蒙とはなにか? その問いの答え - カント

たしか大学2年生か3年生の時哲学ゼミで読んだやつ.

Literature Notes

啓蒙とは人間が自らに責めのある未熟状態から脱出することである. 未熟状態とは, 他人の指導なしに自らの悟性を使用する能力のないことである. この状態は, 決意と勇気との欠如 (怠惰と怯に原因がある. したがって, あえて知れ! (Sapere oude!) 汝自身の悟性を使用する勇気を持て!

啓蒙のためには, 自由以外何も必要とせず, その中で最も無害のもの, すなわち, 自己の理性をあらゆる面で公的に使用する自由より以外のものは何も必要とせられない. 自己の理性の公的な使用はいつでも自由でなくてはならず, また, 自己の理性の私的使用はしばしば非常に狭く制限されてよいのであり, このことによって啓蒙が妨げられることはない.

理性の公的使用とは, ある人が学者として読者界の全公衆を前にして彼自身の理性についてなす使用を意味している. 私的使用とは, ある人が委託されている市民的地位あるいは公職において彼の理性についてなすことが許されている使用のことである. 公共体の利害関係が関わる用務には, ある種のメカニズムが必要である. これを介して若干の構成員は受動的に行動しなければならないが (なぜなら秩序を守るため), これは彼らを政府によって人為的な一致を通して公的な諸目的に適合させるためであり, この目的の破壊から遠ざけておくべきである. したがって, この受動的部分であるものが同時に全共同体の構成員, それどころか世界市民社会の一員とみなし, 公的に著書を通して語りかける学者の資格のあるものとしてみなすならば, 彼はもちろん議論してさし支えないのであり, このことによって彼が受動的構成員として部分的に任ぜられている用務が傷つけられることはない.