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📜刺激と反応の間に隙間がある、この隙間に自分の反応を選ぶ自由と力がある、その選択の中に成長と幸せがある - ヴィクトール・フランクル

刺激と反応の間に隙間がある. この隙間に, 自分の反応を選ぶ自由と力がある. その反応の中に自分の成長と幸せがある.

Books

大学一年生のときに読みまくった.

📚苦悩する人間 - ヴィクトール・フランクル

  • 苦悩する人間
  • ヴィクトール・E・フランクル
  • 春秋社

🔖ホモ・パティエンス

人間とは, 苦悩に耐えられる存在.

Literature Notes

実存分析ないしロゴセラピーにとって本質的に重要なことはただひとつ、人間は(実存的な意味において)何を「なすべき」かということだけであります。 ニヒリズム的な意味の否定の代わりに、意味解明の試みがなされなければなりません。(そのつど存在する)意味を見出さなければなりません。

さて、私たちは意味をいかにして見出すのでしょうか。これに対して、私たちは「人生の意味は人生そのもののうちにある」という現存在の答えから出発することにしましょう。現存在の意味は、ただそのつどの人格に即して、またそのつどの状況に即してのみ妥当するのです。それゆえ、人生の意味へのといはただ具体的にのみたてられうるのであり、答えもただ活動的にのみ与えられうるのです。「人生問題」に答えるとは、答えを「行う」ことなのです。

意味への問いは「このものに即して」立てられなければなりません。よって、もし意味への問いかけが全体(個別を超えたもの)に向けられるならば、その問いは無意味なものになります。というのも、全体の意味は私たちの把握能力を必然的に超えているからです。したがって、全体の意味は、「超意味」といえるだけです。

超意味については考えることが不可能なものでありますが、また考える必要がないものでもあります。すべてが意味を持ち、いたる所に超意味があるなら、それは私にわかるはずもありません。だから、こういえるかもしれません。超意味を信じることこそ意味がある、と。超意味は、「結果において」はじめて、またそのときにのみ与えられるのです。いつもただ、行為を通してのみ、あとから感じ取ることができるだけなのです。

苦悩によって、現在生の悲劇的構造を垣間見ます。人間存在が最終的には受苦であること、人間の本質は苦悩する人間、苦悩人であるということです。苦悩する人間はまさに真理のすぐ近くにいるのであり、たやすく真理に気づくのです。苦悩への敢然さ、勇気、これこそが重要なのです。苦悩を引き受けること、運命を肯定すること、運命に対して態度をとることが大切なのです。この道を歩んでこそ、私たちは真理に近づくのです。

苦悩が意味で満たされるためには、何のため、誰のために苦悩するときだけなのです。つまり、苦悩は自己目的であってはならないのです。自己目的に陥った瞬間、苦悩はマゾヒズムに転化します。

人間が本当に欲しているのは意味深く生きることです。決定的な基準となるものは、実存の持続時間ではなく、実存の意味充実なのです。短い人生でも有意味でありえますし、長い人生でも無意味なままでありうるからです。

📚意味への意思 - ヴィクトール・フランクル

  • 意味への意思
  • V.E.フランクル
  • 春秋社
  • notes.
    • 一生懸命に読んだけど、なんだかよくわからなかった。 17:43 2006/09/05
    • 今ならわかる. 2022-09-12 Mon 08:07

Literature Notes

人間は、動物とは異なって、なにをなさねばならないかを本能から告げられることはないし、また現代の人間はもはや、なにをなすべきかを伝統から告げられることもない。その上、人間はもはや、自分が何を本当に意志しているのかを知らないように思われることもしばしばである。それだけに人間はいっそう、他人がなすことだけに意志しようとするか、あるいは他人が意志することだけをなそうとするか、のいずれかになる。前者は画一主義にいたり、後者は全体主義に至る。

自己実現を目標にすえるものは、次のことを見落とし忘却しているのです。つまり、人間は結局のところ意味を満たす(自己自身のうちにおいてではなく、自己の外、世界において意味を満たす)その程度に応じてのみ自己を実現することができるということです。言い換えれば、自己実現は目標として設定されるものではなく、私が人間的実存の自己超克(自己自身を超えて、自己自身ではないなにか、すなわち満たされるべき意味や自己がである人間存在に自己を差し向けるという根本的事実)と呼ぶところのものの副次的結果として生じるものなのです。

人生において重要なのは、意味を与えることではなく、意味を見出すことなのです。意味を探し求める際に、人間を導くのが良心です。われわれは無意味感の蔓延する時代に生きています。われわれの周りには、性的な刺激だけではなく、さまざまな刺激があふれています。人間がこのマスメディアによる刺激の氾濫に打ち勝とうとするならば、なにが重要でなにがそうでないか、なにが本質的でなにがそうでないか、一言で言えば、なにに意味がありなにに意味がないのか、ということです。こんなわれわれの時代には、教育は、単に知識を伝えることだけでなく、良心を洗練することをも心がけなければなりません。その結果、人間は、状況の一つ一つに内在している命令を聞き取ることができるほどに耳ざとくなるのです。そのときには、まさにこの彼の人生は新たに意味に満ちたものに思われるようになり、またそればかりか、画一主義や全体主義に対する免疫性も彼自身に与えられることになるでしょう。

われわれは他者の人生に意味を与えることはできません。というのは、人間の苦悩、人間の人生の究極的意味への問いに対しては、もはや知的な答えはありえず、ただ実存的な答えしかありえないからです。

人間であるということは、自分自身ではない何かに向かって方向付けられ、秩序付けられているということです。人間の現存在がもはや自分自身を越えて外へとさしむかうことがなくなるならば、そのとたんに生きながらえることは無意味になる、いやそれどころか、不可能にさえなります。

References