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- かなりの衝撃を受けた. 三回も読み直してしまった. すごすぎる.
<2006-07-11 火>
- かなりの衝撃を受けた. 三回も読み直してしまった. すごすぎる.
Literature Notes
💡ユーモアは自己維持のための戦いにおける心の武器
ユーモアへの意志.
ユーモアもまた自己維持のための戦いにおける心の武器である。ユーモアへの意志、すなわち事物を何らかの形で機智のある視点で見ようとすることは確かにトリックではあった。しかしまさに一種の生活術の意味におけるトリックが問題であったのである。
未整理
苦悩するもの、病む者、死につつある者、使者----これらすべては数週の収容所生活の後には当たり前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである。
われわれは夜寝る前に虱を取りながら裸のわが身を見るときなど、皆大半同じことを考えるのであった。一体この身体は私の身体だろうか、もうすでに死体ではなかろうか。一体自分は何なのか?人間の肉でしかない群集、掘立小屋に押し込まれた群集、毎日その一定のパーセントが死んで腐っていく群衆、の一部分なのだ。
元来精神的に高い生活をしていた人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にもかかわらず、収容所の生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるにせよ彼らの精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜなら彼らにとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばし頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。
人に残されたもの - 裸の存在
p23
💡死んでいてもその存在を信じることで生きる希望は得られる
このエピソードでゾッとしてさらに心を動かすのは, 妻は死んでいたということ.
すると私の前には私の妻の面影が立ったのであった。彼女の眼差しは、いまや昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。そのとき私のみを震わし私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を、生まれてはじめてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く昇り得る最後のものであり、最高のものであるという真理であった。私はいまや、人間の詩と思想とそして信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味を把握したのであった。
今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく, 愛する妻の精神的な存在, つまり本質に関わっているということ.
愛する妻がまだ生きているのか, あるいはもう生きていないのか, まるでわからなかった, 知るすべがなかった. だが, そんなことはこの瞬間, なぜかどうでもよかった. 愛する妻が生きているのか死んでいるのかは, わからなくてもまったくどうでもいい.
💡被収容者の内面が深まるとたまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった
壕の中の瞑想より. 現実の辛さによる内省が感受性を高め, なにげない風景や日常を感動させる例.
被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況をわすれさせてあまりあるほど圧倒的だった.
世界はどうしてこんなに美しいんだ!
💡強制収容所におけるなぜ生きるかを知っている者はどのように生きることにも耐えれた例
📜なぜ生きるかを知っている者はどのように生きることにも耐える - ニーチェ
収容所の囚人についての心理学的観察は、まず最初に精神的人間的に崩壊していった人間のみが、収容所の世界の影響に陥ってしまうということを示している。またもはや内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられたということを明らかにしている。
強制収容所における内的な生活理想は、人間的に崩壊してしまった人間にとっては過去への回顧的な存在様式になるのであった。囚人の仮の存在様式に相応じている現実の完全な価値低下は、囚人に自ら放棄して以下せしめるようにいざなうのである。なぜならばいずれにせよ「すべては目的がない」からである。かかる人々は、著しく困難な外的状況こそ人間に内面的に自らを越えて成長する機会を与えるものだということを忘れているのでる。囚人として過ごす時間の言語に絶する多くの艱難の下で、ある倫理的な高みに飛躍することなくして、かかる人間の生活は次第に埋もれていってしまうのであった。もちろんかかる高い飛翔は少数の人間にのみ可能であった。しかし彼らはその外面的な挫折や、また死においてさえも、以前の日常生活でおそらく決して到達したことのないであろう人間的偉大に達することができたのである。
未来を失うとともに彼はその拠り所を失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。強制収容所における人間を内的に緊張せしめようとするには、まず未来のある目的に向かって緊張せしめることを前提とするのである。ニーチェの「何故生きるかを知っているものは、ほとんどあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ」が、このことをよくあらわしている。すなわち囚人が現在の生活の恐ろしい「如何に」(状態)に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生活目的を意識せしめねばならないのである。
📜強制収容所生活ですらその人生の意味に答えることが出来る
この主張をもう少しまとめた著作が続編の📚それでも人生にイエスと言うとなる.
ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれは期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。