スピリチュアルのごちゃごちゃで無秩序な思考を整理して体系でまとめた人.
- 「フロイトとブッダを結合させた」というキャッチフレーズ
- 1990年代中期以降、トランスパーソナル思想からの決別を宣言
🎓インテグラル理論
🖤フラットランド
心の内面世界を物質に還元・吸収し、高さも深さも意味もない単調な世界にたたみ込んでしまっている.
📚科学と宗教の統合 - ケン・ウィルバー(2000)
<2025-09-22 Mon 09:33> なんか大学生のときに読んでいたようだ. 読書メモがある.
科学と宗教の統合 - ケン・ウィルバー 吉田豊訳 春秋社 (2000)
科学は明らかに人類が真理を見出すために考案したもっとも深遠な方法のひとつであり、宗教もいまだに、意味を見出す最大の力であり続けている。真理と意味、科学と宗教、近代と前近代。
前近代の宗教的世界観の核心は「存在の大いなる連鎖」である。これによれば、現実とは、物質から、身体、心、魂、霊までの諸レベルが折り合わされた見事なつづれ折にほかならない。どの上位の次元もそれより下位の諸レベルを「包含」すなわち「包み込んでいる」。西洋における近代の隆盛とともに、「存在の大いなる連鎖」は消え、それに代わって、宇宙は基本的に物質で構成されているとする「平面世界」的な概念が占領した。物質から神に至る連鎖の代わりに、物質がすべてということになった。
近代の定義は、「芸術・道徳・科学という価値領域を差異化した」だ。
宗教と科学を統合することは、前近代の世界観と近代の世界観を統合することだ。しかるに、前近代の真髄は「存在の大いなる連鎖」であり、近代の真髄は、芸術・道徳・科学という価値領域の差異化である。この連鎖と差異化を統合することだ。
<善>は道徳、正しさ、倫理に関わる。<神>は客観的真理に関わる。<美>は見るものの眼の中にあるといわれる。美は主観的自己それぞれの美的・表現的な傾向を表すからである。これらの諸領域、芸術・道徳・科学、または<美>・<善>・<真>はそれぞれ異なったタイプの言語、「わたし」、「わたしたち」、「それ」を持っている。近代は、「私」と「私たち」は「それ」の植民地になってしまった。独善的な<真理>の増大によって、<善>と<美>は圧倒されてしまった。科学が伝えるもの以外の真理は存在しないという信念、すなわち科学主義と化した。
「私」(左上):意識、主観性、自己、自己表現(芸術と美学を含む)、真実性、誠実、他に帰しえない即時的な生きた知覚。一人称的記述。「私たち」(左下):倫理や道徳、世界観、共通の文脈、文化、間主観的意味、相互理解、適切さ、公正。二人称的記述。「それ」(右手):科学と技術、客観的自然、経験的形態(脳や社会制度を含む)、叙述的真理(単一および機能的適合)、個体と制度両者の客体的外面。三人称的記述。これは、近代の差異化の最も重要な三領域である。自信満々の近代は、「左手」次元全体を本気で消し去ろうとしたとき、その科学的努力が〈コスモス〉そのものからあらゆる意味や重要性をも消去してしまうことに気づかなかった。なぜなら、〈右手〉領域のどこにも、価値や意志、深さや意味がないからである。「左手」には質のレベルがあるが、「右手」には量のレベルがる。お思いやりは殺人よりも尊いが、惑星は銀河よりも好ましいということはない。健康は病気よりも好ましいが、山は川よりも好ましいということはない。思いやりはセロと任に、喜びはドーパミンに還元される。
「純粋理性批判」は、形而上的な真理をつかむには独白的理性では不十分であることを容赦なく暴き、基本的にそうしたタイプの形而上学の歴史的・劇的終焉をハッキリ示した。伝統的形而上学の死。これはカントの第一批判におけるほとんど議論の余地のない結論であった。だが、カントにとっては、これははじまりに過ぎなかった。独白的理性は「霊」が存在しないということもできないのだ!カントの第二批判において、独白的理性が「霊」の立証に失敗するのに対して対話的理性が少なくとも一定の示唆的なやり方で成功を収めうることをしめそうと試みた。科学的理性が神をつかむことができないとしても、対話的理性ならなんらかの超越的・霊的知識を示してくれるはずだ。道徳は「霊」が存在し、自由が意味を成し、魂にある種の不死性があると想定したときにしか機能しえない、と信じていた。食べ物が存在しなければ、胃の空腹はありえないように。カントは偉大な第三批判において、表現的ー美的次元を通して、部分的ながらこの統合を試みる。
科学が「それ」らの真正な知識を生むこと、そして「私たち」の道徳が霊的な知恵を開示することは認めよう。しかし、こうした個々の領域を実際にどのようにして統合するのか?その統合こそ実は最も恵まれているもっとも高次の目標ではなかったのか?「芸術」が科学と宗教の統合の偉大な架け橋だとすれば、世界の救済は芸術家の手にかかっているのでは?広い意味での経験主義とは、感覚的経験主義(自然科学)、心的経験主義(論理学、数学、記号論、現象学、解釈学など)、霊的経験主義(体験的神秘主義、霊的体験)があるのだ。言い換えれば、「肉の眼」が目にする証拠(たとえば、感覚運動世界の固有の特徴)、「理知の眼」が目にする証拠(数学や論理学や象徴の解釈)、「黙想の眼」が目にする証拠(悟り、ニルヴィカルパ・サマーディ、グノーシス)があるのである。一方、狭い意味での経験主義は、感覚的経験主義にとどまっていた。科学は、狭い意味での経験主義であってはならない。なぜなら、狭い意味の経験主義は数学や論理学さらに科学自体の概念的道具の大半を認めていないからである(心理学、歴史、人類学、社会学はいうまでもない。)
個々で、科学的探究の三つの本質的側面だと筆者が確信していることを列挙する。
介助的指示:これは実際に行うこと、手本、パラダイム、実験、手順である。これは必ず「これを知りたければ、これをせよ」という形をとる。直接的感受:これは指示によって提示された領域をじかに経験することである。つまり、直接体験ないしデータの感受である。「データ」の意味のひとつは介在するものがない直接的な経験であり、科学はそのようなデータの具体的な主張の全体に基礎を置く。共同体的確認:これは支持と感受の要素を十分満たした他の人々と、結果(データ、証拠)を照合することである。科学と宗教が統合されるとしたら、どちらも最低でもすこしは譲歩しなければならない。だが、それぞれが見分けがつかないほど形を変えることなく。私たちは、科学が偏狭な経験主義から幅の広い経験主義へと発展すること以上のことを求めていない。いずれにせよ科学は、論理学から数学までの概念的活動の場合は、すでに幅広い経験主義を採用しているのである。しかし、宗教も譲歩しなければならない。この際、宗教は自らの真理性の主張を、経験的証拠のよる直接的な検証にゆだねなければならない。っ宗教も科学同様、有効な知識全体の三つの要素を採用し、その主張を直接体験に結び付けなければならない。科学がその偏狭な経験主義をより拡張された経験主義に明け渡すならば、そして宗教がそのいんちきな神話的な主張を真正の霊的経験のために放棄すれば、思いがけなく、まったく突如として、科学と宗教は幾世紀もの仇敵ではなく仲のいい双子のように見え始めるだろう。本物の霊性はもはや神話的、想像的なものではありえない。それは反証可能な証拠に基づいていなければならないからだ。つまり、直接的な霊的体験に基づいていなければならないし、その体験は有効な知識全体の三つの要素(支持、感受、確認、あるいは範型、データ、反証可能性)に厳密に従わなければならない。宗教がモダニティに持ちこたえるには、黙想の目によって開示される神秘的直接的体験や超越的意識を強調するときだけなのである。
大いなる連鎖の簡略版(身体、心、魂、霊)と、便宜上、四象限を〈ビックスリー〉(芸術・道徳・科学)に単純化すれば、各々三つの次元を持つ四つのレベルが存在することになる。すなわち、感覚的領域の芸術、道徳、科学、心の領域の芸術、道徳、科学、微細レベルの芸術、道徳、科学である。(略)