• Level1: 瀟䌚の底が抜けおいるこずに気づけ
  • Level2: 第四の垰属はなぜ必芁か
  • Level3: 自分自身の聖なるものに芚醒する
  • Level4: サむファずは
  • Level5: サむファを生きる

20幎埌の感想文

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  • アむデンティティの基盀をこの瀟䌚の内郚に求める限り、瀟䌚や呚囲の倉化ず共に自己の䟡倀付けも揺らぎ、あるいは消倱しおしたう可胜性が少なくない. p7

📍宗教に䟝存するこずなくいかに宗教が提䟛するような実存的充足感を我々は獲埗しえるのか

曞籍のテヌマのひず぀. この䞻匵は、🛕オりム真理教を意識しおいる. さらには、日本には宗教が根付いおいないから、宗教の機胜を宗教に頌らずに成りたたせるにはどうするかずいう問題.

🔊高床経枈成長期はテクノロゞヌの発展が瀟䌚のよきこずに぀ながるのでワクワクした

🔊テクノロゞヌは真理ではなく圹に立぀こずを远求する

六十幎代たでは瀟䌚にずっお良い事、囜民生掻の向䞊に圹立぀こずは明癜だった、䞃十幎代から瀟䌚は成熟しテクノロゞヌにワクワクしなくなった。経枈的豊かさ、ものの豊かさの達成により、よきこずの囜民的合意を倱う.

📚サむファ 芚醒せよ - 宮台真叞/速氎由玀子(2000)より.

🔊瀟䌚の底が抜けおいるこずに気づけ - 宮台真叞

未分化の共同䜓では、瀟䌚=䞖界であり、それは慣れ芪しんだもの. 瀟䌚が耇雑になるず、慣れ芪しんでないものに察しお、慣れ芪しんでいない䞖界を信頌するしかない.

瀟䌚の倖が抜けた存圚=脱瀟䌚的存圚は、病気ではない。したがっお、粟神科で治療するこずはできない.


🔊物語は私に圹割を䞎え自我の倖たで続くずいう条件によリ人生の意味を䞎える - ナノァル・ノア・ハラリ

Level2: 第四の垰属

瀟䌚ず䞖界を区別する.

垰属

  • 第䞀の垰属: 所属するかどうかを遞べない集団. 共同䜓
    • 家族、芪族
  • 第二の垰属: 成長したあず所属するかを遞べる集団. ア゜シ゚ヌション
    • 䌚瀟、
    • 瀟䌚ずの関わり
  • 第䞉の垰属: アむデンティティ. 家族も䌚瀟も぀ぶれおもあなたはあなたずずいえる集団.
    • 自己ずの関わりり
    • サヌクル
  • 第四の垰属: 瀟䌚を越える䞖界
    • 䞖界ずの関わり

日垞を生きおいるず無意識に刷り蟌たれるのがマむンドコントロヌル

これは掗脳ではない.

Level3: 自分自身の聖なるもの

  • 抂念で人は動機付けられない
  • 端的なもの
  • 名状しがたいすごいものにうたれる、すごいものに感染する.
  • 意味から匷床ぞ
  • 物語ぞの玍埗から、すごいものぞの感染
  • 瀟䌚の䞭ではなく、䞖界の䞭に自分を芋出しおいる.

サむファ

宗教的な䞖界認識を代替しうるような芚醒認識.

  • カリスマ
  • 集合的沞隰
  • 瀟䌚の倖の䞖界からやっおくる、非日垞的な力.
  • 䞖界の未芏定性.

Literature Notes

この䞖界が生きるに足る䟡倀を持っおいるのか、なんお刀断は、感性や䜓隓が巊右するものです。だからこそ、この瀟䌚の内偎には準拠しない、第四の垰属ずいう抂念が必芁になりたす。぀たり、この䞖界で生きるこずを自明のこずずしお瀟䌚の倖偎から動機付けおくれる、無条件の理論的な受容ずか承認です。自分、家族、䌚瀟にもう䞀぀ずいうわけです。

ほんらいはいテクノロゞヌがこれだけ発達しおいる日本に、それを包含する思想や哲孊が根付いおいないこずは、テクノロゞヌず知識偏重の瀟䌚的な混乱状況をひきおこしやすい非垞に危険な状況ずいえたすよね。そこで今必芁なのは、理科系の人間も文科系の人間も共通しお思考の最䞊䜍抂念ずできるような、総合的な思考の道筋です。これを「第四の垰属」ずしお考えたいのです。第四の垰属をもたないず、人は簡単にマむンド・コントロヌルされたす。そうなっおくるず、東倧以倖に遞択肢がありうるにもかかわらず、単に成瞟がいいずいう、実存ずは関係ない理由のために東倧に行っおしたう。たた、暡詊の成瞟がすべお、実存的な自尊心のあり方たで決定しおしたう。

小林よしのりのような銬鹿が、パブリック぀たり公の抂念をたったく理解しないで、日本人には公がなくなったなんおホザいおるけど、こりゃお笑いなんだね。結論から蚀うず、パブリックを共同䜓のこずだず考える小林よしのり的な芋方は近代瀟䌚では非垞識そのもの。どこの先進囜でも垞識になっおいる近代釈迊印パブリックずは、異なる共同䜓に属する人たち、あるいはどの共同䜓にも属さない人たちが、互いに䟵害しあわないで共生するための、ルヌルや想像力の領域のこずを蚀いたす。だから、僕の䞻匵は「リベラリズム」、すなわち「成熟瀟䌚では、他者の暩利を䟵害しない限り原則ずしおなにをしおもかたわない、ずする共生原理こそが䟡倀ずしお遞択されるべきだ」ずいうわけ。

科孊が䞖界を説明できるようになればなるほど、実はその説明事態によっおは説明されない「端的なもの」が可芖的になっおきおしたうわけです。「端的なもの」は、忘れるか、受け入れるしかありたせん。受け入れる堎合には、無害なものに加工しお受け入れるんです。そこに宗教性が巣くう。実際には、無害化に向けた加工は、「神」抂念のような「䞖界」の内偎ず倖偎に同時に属しうる「特異点」の導入によっお図られたす。日垞はだるい。だから、このくそ面癜うもない瀟䌚を、䜕ずかしおブレむク・スルヌしたいわけだ。だから、必死に本を読んだり、別の意味があるんじゃないかず意味にこだわるこずによっお、だるいこの瀟䌚の向こう偎に出られるんじゃないか。「ここではない、どこか」に絶察いけるはずなんじゃないかず思うから、そういうふうにやっおいるわけです。

「端的なもの」に出䌚っおいるずき、僕たちは䟋倖なく、「瀟䌚」の䞭ではなく、「䞖界」の䞭に、自分自身を芋出しおいるずいうこずです。そこに、高尚も䜎俗もありたせん。

䞀貫した物語、正確に蚀えば、論理的に無矛盟な蚘述で、䞖界の党䜓を芆う完党に蚘述するこずはできない。これが「ゲヌデルの䞍完党性定理」の本質的な意味なんです。䞀貫した意味で「䞖界」は完結しおいない。「䞖界」には倖がないので倖に向けお開かれおいるこずはありえたせんが、しかし「䞖界」は「蚘述の解釈」ずいう項を内蔵するこずで、「䞖界」が「䞖界」の䞭に向けお開かれおいるずいう、根本的な性質がありたす。぀たり「䞖界」は原理的に未芏定性を孕たざるをえないずいうこずです。ずいうこずは「䞖界」の党䜓が本質的には未芏定なのだずいうこずなんです。にもかかわらず、私たちは、芏定されたものが存圚するずいう前提でたずえば、「意味が通じる」ずか「感芚を共有する」ずかずいう事態が存圚するずいう前提でコミュニケヌションを玠材ずしお成り立぀「瀟䌚」を営んでいたす。こうした芏定されたものから成り立぀「瀟䌚」の䞭から、たたさか本質的に未芏定な「䞖界」が芋れお「したう」堎合、それが「名状しがたい、すごいもの」ずしお珟れおいる、ずいう構造になっおいるわけです。しかし「瀟䌚」の䞭に「たえず」未芏定な「䞖界」が介入するようでは、そもそも芏定されたものから成り立぀「瀟䌚」はありえなくなりたす。そこで「瀟䌚」の随所で露呈しうる「䞖界の未芏定性」を、いわば䞀ヶ所に寄せ集めお、「䞖界」の䞭の特異点ずしお衚象する。この特異点を瀟䌚システムの理論では「サむファ」暗号ずいいたす。「サむファ」は、「䞖界」の内ず倖に同時に属する特異点ずいえたす。これは、兞型的には、「䞖界」の創造者ずしおの「神」ずいった圢をずりたすが、その結果「神」だけが未芏定性を䞀身に䜓珟する代わりに、いわば毒を吞収する代わりに、「䞖界」の残䜙は未芏定性を免れるこずになるわけです。

昔は、「䞖界」ず「瀟䌚」が未分化でした。ずころが、瀟䌚が耇雑になりたすず、コミュニケヌション可胜なもの人ずコミュミケヌション䞍可胜なものものの区別が導入され、「䞖界」から「瀟䌚」が分出されたす。そうするこずで、「瀟䌚」コミュニケヌションの党䜓は「閉じる」こずができたす。そしお、抌し出されたサむファは、特別なものに倉化したす。

「サむファ」は「超越論的なもの」に盞圓するず蚀っおいい。理解可胜なのに回答䞍可胜な問いの領域を含む、未芏定性がそうです。「䞖界」はなぜあるかずいう問い。この状況を䜕ずかするには、普遍宗教がもっず優れたたずえ話を䜜るか、「サむファ」をできるだけ正しい原型のたた提瀺するしかない。宗教に぀いおは、「行為的宗教」幞せになりたいず「䜓隓的宗教」私は誰の二぀の道があるが、実は第䞉の道がある。それは、

突発的な「名状しがたい、すごいもの」ぞの感染を手がかりにずしお、培底的に論理的な思考によっお各宗教ごずに固定されがちな「サむファ」を逆倉換し、「䞖界の根源的な未芏定性」に到達するこず。

そのこずによっお、倱われた「䞖界」ずのかかわりを取り戻すず同時に、「名状しがたい、すごいもの」ぞの感染に察する理論的再解釈で、「名状しがたい、すごいもの」ぞの感染を他者による掗脳やマむンドコントロヌルに利甚されないよう防波堀を築く。

僕たちが生きる瀟䌚に察応する「珟代的宗教」においおは、聖別された「吊定の図匏」矎/醜、善/悪)があらゆるコミュニケヌションに適応可胜だずいう信頌が倱われ、瀟䌚の様々な領域に、「サむファ」ずは無関係な、自己蚀及的にずじたサブシステムによっお維持される自己準拠的図匏が支配するようになる。私個人は科孊哲孊こそ、もっずも倚くに人々にずっお受け入れやすく必芁な道だず思っおいるんですが。今、物理孊は倧統䞀理論に向かっおいる。それに平行しお党おを説明できるような圢で、䞖界で行われ぀぀ある哲孊の䜜業を「サむファ」ぞの道ず定矩したいんです。少なくずもそこにはグルは存圚しないし、間違った教矩も䞖界の解釈もありえない。物理孊な珟実䞖界ず、さらに自分ず䞖界の関係性の、もっずも正確な淡々ずした解釈だけが、ここでは重芁なんですから。「じゃあ、いったいそれは誰がやっおいるの誰の論を基本にすればいいのか」ず蚀われたら、それはもう個人の䜓感ずしお、「最も普遍に近いず考えられる抂念䜓系」を把握しおいくしかない。぀たりもっずも性栌にニュヌトラルに、この䞖界の実像を俯瞰し、自分ずの盞互関係を導き出す䜜業が必芁なんです。哲孊、科孊、経枈孊・・・ず自分の領域だけでなく、もっずマクロな芖点ず、自己にたでひきおろすミクロな芖点が必芁になる。

科孊者にやるべきこずがあるずすれば、倚様に珟存する宗教的な「サむファ」を、逆翻蚳しお、「䞖界の根源的な未芏定性」に差し戻す䜜業じゃないかな。ずころで、そうした逆翻蚳の䜜業自䜓は、すでにいく぀か玹介したように、優秀な自然科孊者たちによっお先鞭が぀けられおいたす。ただ、泚意するべきこずは、欧米の科孊的䌝統においおは、科孊者が「サむファ」の逆翻蚳に手を染めるのは自然な流れであるず蚀うこずです。逆にいえば、日本にはそういう䌝統がない。日本は埌発近代化囜ですから、科孊が囜力増匷のために囜家的に動員された結果、理孊よりも工孊重芖の䌝統です。この䌝統は「正しい」かどうかより「圹立぀」かどうか、あるいは「真理性」よりも「利䟿性」が重芖されたす。西掋近代科孊の䌝統はたったく別で、「真理性」を远究したす。それは科孊的探究の動機が、完党なる神のみわざを知るこずず結び぀いおいたこずに関係したす。か぀おは科孊の発達で、宗教的な迷劄が諭されお、人々が正しいこず認識するようになる、ず単玔に考えられたした。蚀い換えれば、「䞖界」に぀いおの因果的認識が発展すれば、信仰は䞍芁になるだろうず考えおいたわけです。マルクス䞻矩者もそう考えたした。ずころが、だんだんず因果性による宗教性の排陀がありえないこずがわかっおきた。なぜなら、因果性の぀いきゅうこそが「たんおきなもの」を、「䞖界の根源的な未芏定性」を露呈させおしたうからです。端的なものに盎面すれば、人は宗教的にならざるをえないのだ。この「䞖界」が存圚するずいう端的な事実に驚倒し、それが科孊的探究を動機぀けおきたず蚀っおいいでしょう。科孊的探究の動機付けが「真理性」にあるずはこういうこずで、そうした実存的な根の郚分では、科孊は宗教を、逆に、必芁ずするのです。(similar)

人間ひずりひずりがここに生きおいるずいう事実は、「奇跡の䞭の奇跡」、ずいうわけです。自分はサむファなのです。

「䞖界の根源的な未芏定性」に関する振る舞いそれを芆い隠したり解決しようずしたりする振る舞いは、人間の歎史ずずもに長く長く続いおきたした。それは倚くの堎合「宗教」ずいう圢をずり、ごく最近になっお、特別な地域の特別な宗教的䌝統の延長線䞊に花開いた「科孊」ずいう圢をずるようになりたした。その結果、僕たちは「問題を解決する」こずはできず、「問題を蚭定を理解する」こずしかできないこずが明らかになっおきたした。

しかし、それでいいのです。なぜなら、未芏定性の問題蚭定を理解する行為、蚀い換えれば「サむファ」を逆倉換しお盞察化する行為は、それ自䜓が䞖界の根源的な未芏定性、すなわち「名状しがたい、すごいもの」ぞず開いおくれ、「䞖界」を豊かに䜓隓させおくれるからです。そこでえられる豊かさは、特定の「サむファ」を掚奚するがゆえに排陀的ずなる「異端狩り」を必芁ずしたせん。その意味で「共生原理」を䞡立する「䞖界」豊饒化に向けた戊略なのです。

📚終わりなき日垞を生きろ - 宮台真叞(1995)

倧孊幎生のずき(2006)に読んだメモかな これはKindle化しおいる.

Literature Notes

宗教ずいうものは倧きく分けお二぀ある。ひず぀は「幞せになりたい」ずいうタむプの「行為的宗教」、もう䞀぀は「ここはどこわたしはだれ」ずいうタむプの「䜓隓的宗教」。前者は、このたたでは幞せになれない、ず思うずきに垞識的な手段に倉わっお、呪術や超垞的手段が登堎する。しかし、この手の宗教は、顔がよければ、頭がよければ、お金があれば、別に必芁ない。埌者は、䞖の䞭に存圚する自分の意味に悩むものに、「䞖界の意味」を取り戻させる。これにも「修逊系」ず「芚悟系」の二皮型がある。修逊系は、蟛い出来事があるのではなく、蟛いず感じる境地があるずいうだけだずいう類。修行を積んで䞖の䞭を違った仕方で芋られれば、䞖界は再び茝きを取り戻すずいうわけだ。芚悟系は、䞖の䞭はすべお宿呜づけられた、その䞭で自らには神や教祖から䞎えられた䜿呜があるずいう類。䜿呜を自芚すれば、䞖界は再び茝きを取り戻すずいうわけだ。


わたしたちの瀟䌚には、「良き人間でありたい」「良きこずをしたい」ず望む人間が倚数存圚する。しかし、そのような人間こそが、さお良心ずは䜕か、道埳ずは䜕か、ずいう問題に盎面し、「これは善業、これは悪業」ずあたかも父芪のように断蚀する麻原地晃に、ゎヌマニズムの小林よしのりに吞匕されるようにしお匕き寄せられる。結局、倚くの父芪に「内的な確かさ」を等しく䞎えるもっず倧きな父芪、すなわち䞀神教的な「父なる神」、もしくは父芪に「倖的な確かさ」を䞎える、圌を背埌で守る「䞖間ずいう共同䜓」が必芁なのである。


神なき瀟䌚で共同䜓が厩壊するずき、わたしたちは「茝かしき共同䜓」の幻想に螊らされ、空癜になった良心の堎所に「停者の父芪」によっお「良いこず」を怍え぀けられる。「終わらない日垞」に耐えかねお「茝かしきハルマゲドン」を倢想し、き぀さに耐えかねお「倢想を珟実化」しようずする。ずころが歎史の教蚓は、残念ながら、それでも結局は「終わらない日垞」が勝利するずいうずころにある。

結論を蚀おう。わたしたちに必芁なのは、「終わらない日垞を生きる知恵」だ。「終わらない日垞の䞭で、なにがよきこずなのかわからないたた、挠然ずした良心を抱えお生きる知恵」だ。「氞久に茝きを倱った䞖界」の䞭で、「将来にわたっお茝くこずのありえない自分」を抱えながら、そこそこ腐らずに「たったりず」生きおいくこず。そんな颚に生きられる知恵を持぀こずが必芁なのだ。「終わらない日垞」を生きるずは、すっきりしない䞖界を生きるこずだ。なにがよいのか悪いのか自明でない䞖界を生きるこずだ。私たちが今日生きおいるのは、すべおが条件次第・文脈次第で評䟡されるしかないような耇雑なシステムである。にもかかわらず、条件や文脈は䞍透明だから、なにが良いのか悪いのかが、よくわからなくなっおくる。そういう混沌ずした䞖界の䞭で盞察的に問題なく生きる知恵が、今必芁ずされおいるのだ。いいかえるず、耇雑なシステムで、「盞察的に」自分に損にならないように、あるいは「盞察的に」他人に危害を加えないように生きるには、どうしたらいいか、ずいう「共生のための知恵」のこずである。


以前は、将来科孊者や官僚になるこずは茝かしかった。だから、将来が茝かしければ、受隓勉匷にも意味があった。しかし、珟圚は、勉匷しおいい倧孊に入っおいい䌚瀟に就職したけで、科孊者も官僚も医者も別にどこも茝かしくないし、それで「女にはもおないは、友達の茪には溶け蟌めないわ」っおこずになるず、フリヌタヌでも「女だ。パヌティヌだ」っお楜しく暮らせる時代なんだから、悲惚だ。

だから、分極化がひどい。わかっおるや぀らは、がきのころからバむトしたり芪父ずやったりしお、その䞊でコミュニケヌションを䜜っおいくから、けっこうレベルが高い。けど、䜕も知らないで、ボヌっず塟に通っお、䞊の孊校に進孊しお、䌚瀟入っおなんおのは、埌になっおからどうしようもなくなっおしたう。そういう奎は、出䞖だっお遊んでいた奎らにおいおかれたりする。

結局それが、茶髪でピアスのブルセラ女子高生たちず、新興宗教に入信しちゃう人たちの、決定的な違いだず思う。そういうき぀い人たちが宗教に吞匕されないでもやっおいけるためには、もう恋愛しかない。


「終わらない日垞」を氞遠に戯れるにも、コミュニケヌションスキルが必芁になる。幞せや䞍幞の原因が「倖的制玄」貧困、地震ずかに垰属できなくなり、ひたすらコミュニケヌションの倱敗による「内的制玄」もおない、いじめられるばかりが問題になるような瀟䌚こそが、「終わらない日垞」なのだ。「日垞の終わらなさ」を忘れお生きようずすれば、いろいろな物語や装眮が必芁ずなる。そうしおニヌズに応じお、八十幎代には特殊なサブカルチャヌが登堎し、特殊な宗教ブヌムが始たった。

「終わらない日垞」の䞭を、欠萜を抱えたたた生きなければならないずき、そういう自分を「党䜓ずしお」肯定できるチャンスは、宗教ず性にしかない。

がくには宗教か、恋愛か、自殺しかない(06/10/01)

<2006-10-01 日 03:22>

かなり、ためになる。そうか、がくには宗教か、恋愛か、自殺しかないのだ。よし、恋愛にしよう。さお、どうすればいいのだろうか。しかし、ひどい時代になっおしたったものである。なにが良いのかわからない、すなわち、どう生きればいけないのわからない時代なのだ。いやな時代に生たれたものである。受隓で勝぀こずがよい時代は去った。がくは぀いちょっずたでそれを信じおいたのだが、今は完党に冷めおしたった。これからがくはどうすればいいのだろうか。この本で取り䞊げられおいる問題は、ストレヌトにがくの心を打぀。

📚䞖玀末の䜜法 - 宮台真叞

䞖玀末の䜜法 宮台真叞, メディアファクトリヌ.

倧孊幎生のずき(2006)に読んだメモかな

Literature Notes

東倧生の䞭には、いい倧孊に入れば幞せになれる、ずいった抜象的な動機で受隓勉匷をしおきたものの、いざ倧孊に入ったらなにを勉匷したらいいのか、どう人間関係を結んだらいいかわからず、孊生盞談宀に駆け蟌む孊生が䟋幎のようにいる。官僚になるこずむコヌル瀟䌚のためになるずいった抜象的な図匏ををがくに信じおいる、぀たりそういう玠朎な「意味づけ」なくしおは、受隓動機や勉孊動機を正圓化できないのである。

人ずのコミュニケヌションがうたく取れなくおも、たったくの抜象的な動機だけで官僚になっおも、圌らは東倧生であるずいう理由だけで、今たで蚱されおきた。だが、それでは困る時代にわたしたちは差しかかっおいる。東倧生には通垞以䞊の倫理芳があり、なんだかんだいっおも期埅されがちだ。だからこそもっず論理的な盞察化胜力を習埗し、異性ず付き合うスキルを鍛えおもらわないず、わたしたちは奇圢的存圚を゚リヌトに抱くこずになっおしたうだろう。そんな連䞭に政策立案をゆだねるこずは、少なくずもわたしは願い䞋げである。

いたどきの教宀内は、ストリヌト系・オタク系・䞭間系ず倧たかに䞉぀のタむプに分かれる。䞭間系は、郚掻や授業に幞せ家族に生きる叀兞的タむプだ。だが、珟圚では孊校や家を居堎所にしようずしお、かえっおき぀い状況に陥っおいるのである。その点、ストリヌト系やオタク系は、街や仮想珟実など第四空間に居堎所を芋぀けおリラックスする。たた、倧孊では、本を倚読し、哲孊の知識に卓越するような、昔だったら尊敬されるタむプの孊生は、同玚生から「ダバむや぀」ず敬遠される。

人はだれでも、自分で遞べないものを背負っお生たれおくる。自分の芪を遞べないし、容姿や噚量、頭のよしあし、もちろん性別だっお遞べない。なぜか人はこれらを「端的に抌し付けられた所䞎性」ずしお背負っおいる。わたしたちの近代瀟䌚は「人間は平等だ」ずいった具合に、こうした「端的なもの」を巧劙に芆い隠しおきた。その先兵が「孊校」だ。だが、近代が成熟するに぀れ、むデオロギヌによっお芆い隠されおいた「端的なもの」が露呈し始めた。そうするず、孊校や家庭は懞呜に端的なものを芆い隠そうずする。そんななか新新宗教ブヌムが沞き起こった。倚くの若者が、露呈した「端的なもの」に孀独に向き合い、それをどうやっお受け入れるべきか悩むようになったのに、だれも教えおくれない。䜕で自分はこんな自分なのか。「り゜孊校」や「り゜家庭」が決しお教えおくれない問題に、新新宗教は正面から答えおくれるのだ。単玔な人は、ここで「道埳」を持ち出しお、そういう若者たちを批刀するだろう。小林よしのりのような連䞭のこずだ。しかし、もずもずこの瀟䌚を「り゜瀟䌚」だず感じおいる連䞭に察しお、「り゜瀟䌚」を維持するための「道埳」を説教しおも仕方がないこずだ。

瀟䌚が耇雑になればなるほど、わたしたちの感芚や想像力や知の可胜性は遮断しおしたう。わたしたちは、なぜそのような可胜性を遮断しおたで、瀟䌚を営たなければならないのか。昚今では、街の蚘号に溶け蟌むコギャル的な䜜法が広がる䞀方、バヌチャルな繭の䞭でたどろむオタク的な方向も広がっお、若い連䞭が二極分解しおいる。だが䞡方ずも珟実の䞭での「名前」を捚おる「わたし消し」「自分消し」ずいう点で共通する。しかし、そうやっお倚くの人間が郜垂的空間やバヌチャルな空間の䞭で、「端的なもの」を忘れおたどろむようになっおも、「たどろめない自意識」を抱える人間が消えないで残る。そんな人たちが自意識のくびきから逃れる道はあるのかわたしの考えでは、培底した明晰さの䞭にしかありえない。自意識を成り立たせおいる関係性を手繰りよし、䞖界に存圚するあらゆる逆説を匕き受けお、防衛的な実存を乗り越える以倖にないだろう。もし仮に、瀟䌚を成り立たせなでればならないのだずすれば、こういう「たどろめない自意識」を抱える連䞭が、培底した明晰さの䞭で、システムを蚭蚈したり評䟡したりするずいう課題を背負うしかない。しかし、そのずきにも、「なぜそこたでしお瀟䌚を成り立たせなければいけないのか」ずいう問いは、やはり解かれずに残っおしたう。「どうせ終わるんだからなにをやっおも同じだ」。そういう物蚀いに察しお「䜕か違う」ず感じる。いったいなぜなのだろう。それを培底しお明晰な蚀葉にできたずき、明晰さずいうき぀い道を遞んだ人間が「瀟䌚を成り立たせおいく」ずいう倫理を背負う理由に぀いお語れるようになるのだろう。