お金が減ることと、人生が終わることについて.

なんだか、なんどもなんども繰り返し現れる思考だ. 主題を抽象化する.


なにをしてもお金がひたすら失い続ける日々, 3年間UberEats配達員と貧困から抜け出せない日々, なにをやってもうまく行かない日々, こんな状況で, 自己効力感なんか生まれるはずがないのに, それでもここから学び成長をするにはどうすればいいか.

仮にフランクル先生ならば, この状況でなにを選択するだろうか.

💡タイトルを補うならばなんの自由もないアウシュヴィッツの生活にすらイエスという

お金減る, そして努力ではどうにもならない, ただただお金が減る. これは死に至る病に似ている. たとえばがんにかかる. 手術しても手術しても転移して体を蝕んでいく, 苦しんでも苦しんでも, 生きている時間が少しずつ減っていく, 右肩さがり…

これは, まさに同じことだ!

すなわち, このなにをやってもお金がひたすらになくなっていくということは, 将来時間においても全く同じ感情を抱くことになる.

もがいてももがいても, いずれ人は死ぬ. 生きている時間はどんどんなくなっていき, なにをやっても仕方がないのだ. このような死へ向かって時間を失っていく日々, 将来必ず訪れる日々, この状況で心を平穏に保ち, 善い毎日を送るためにはどうすればいいだろうか?

私の野望の一つに, 🚀150歳まで生きてゴータマ・シッダールタを超えるというものがある. ブッダを超えて悟りを開く.

これを死ぬまでに達成したいゴールと設定することは, 死ぬ直前まで努力し続け学び成長することができるのだ. なぜなら死をまなぶことが人生の目的となる, これは最強の思考法かつ目標だと思う. いかなる困難な状況においても成長を実感できる. たとえナチス強制収容所であろうとも, 悟りを目指すことはできるのだ, 素晴らしい.

お金が減っていく, これを死への準備と捉えて死を学ぶための手段とする. もう少し具体的にすると, アーナパーナサティ・スートラにおける消滅の観察の練習をするのだ. これで, いつでも成長を追い求めることができる.

Journals

お金と死について、人生のなかでなんどもなんども、反芻することに気づく.