嬉しくないのに喜んでいるふりをするのはつらいが、心の中ではイライラしつつ笑顔をつくって「おめでとう」とか、心にもないことをいう. そうやって生きている.
小学生のころから表彰式とかお祝事でほとんど拍手をしたことがない. 拍手をする意味が理解できないから. スポーツの表彰式とか、なぜ参加しないといけないんだろう、わたしはあのイベントが気持ち悪いと思う.
他人を喜ぶのは、すでにわたしがそれを手にしているのかそれ相当のもので満たされている場合. または将来それを手に入れることができる可能性がある場合.
どうしても、自分がそれを手に入れていないし、将来もそれを手に入れる可能性が低いものを他人が手に入れても、嬉しいという感情がわかず、むしろ怒りが沸く. その状態で笑顔でお世辞をいうことができないので、大抵は黙ってその場から立ち去る. 他人にたいして喜んでいるふりをしないと、自分が嬉しいときに他人が喜んでくれないという恐怖から、他人を喜ぶのだろうか?そんな自分を苦しめながらの偽善な喜びで他人は嬉しいのだろうか?
仏教の📝ムディター/喜、慈しみの喜びは、見返りを求めない他人への喜びというが、ここには喜捨という目的がある. そもそも喜ぶことで自分から手放してその後は心を乱されないように関わらないことを前提としている. 喜んで捨て去る. これは「おめでとう」とはニュアンスが違う, 勝手に喜んでほしいがそれ以上その喜びを振り回してわたしには関わらないで欲しいというような. 他人を喜ぶのは自分の心を嫉妬から守るため.
わたしは心が狭い人間だ、どうしても他人に嫉妬してしまう. 見返りを求めずに他人の幸せを喜んだりすることがどうしてもできない. 他人に対して喜ぶことはわたしもその喜びを手に入れることを前提にしているし、それがかなわないならば喜びの感情がわかない.
わたしはこれはやさしい人間になるための、克服するべき人生の課題だと思う. だから、このメモにこれからの成長を記録したい.
<2024-11-13 Wed 10:53>