他人の苦しみは自分の苦しみ.

他人が苦しんでいると, それが自分の苦しみのように思い, なんとかしたいと思う.

過去に自分が同じ苦しみに苦しんだからこそ, その経験がトラウマとして扁桃体に強く刻みつけられて, 自分の苦しみも他人の苦しみも同じ強さで扁桃体が反応するからこそ, 他人の苦しみがまるで自分の苦しみのように感じるのかもしれない, これは仮説.

そして, その過去の自分の苦しみから自分に対するセルフコンパッションによって立ち直ったからこそ, コンパッションのスキルが高まり, その力をつかって他人にもコンパッションを向けようと思うのかもしれない.

そして, 他人を助けることは, 未来に巡り巡って自分を助けることのようにも思う.

自分は自己中な人間で自分が幸せになればいいとは思うが, それでも自分に対してコンパッションを向けて他人には向けないという器用なことをするほどわたしは賢いのだろうか? わたしは自己中ではあるものの, 自分も他人も分け隔てなくコンパッションを向け, コンパッションを鍛えることがシンプルな気がする.

また, そういう屁理屈を抜きにしても, 他人か苦しんているとどうしても自分もつらい. これは反応であり理屈がない. 「他人の苦しみは自分の苦しみ」, この信念は正しい気がする.


🌱慈悲とは損得を考えないバカなのかもれない

🌱他人の苦しみは自分の苦しみであり等しく慈悲を向ける

しかし, この信念は同時にとても苦しみを生む種にもなる気もする.

わたしは他人がお金がなくて自殺しかけて苦しんでるのをみて, 思わず全財産をわたしてしまった. ただ, もう他人の苦しみも自分の苦しみもよくわからなかった. 普通の人は見てみぬふりをするのかもしれない.

慈悲とはバカなのかもしれない. もっといえば自己破滅しても他人を助けなければいけないという呪われた衝動なのかもしれない. そこには損得を考慮した頭のいい思考が介在しない. 甘い物を欲しがるように他人を助けるという動物的衝動だ.