Info
- title: それでも人生にイエスと言う
- author: 👨ヴィクトール・フランクル
- publisher: 春秋社
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Insights
大学1年生の感想
「世界はまったく無意味だというのも、世界のすべてが有意味だというのも、同じく正当な主張です。」という主張に、はっ、とした。
そうか、世界が虚無か、そうでないかなんて、決めることはできないのだ。ただ信じることしかできないのだ。まてよ。この考え方は、カントが純粋理性批判で試みた主張と同じではないか。結局は、宗教なのだ。17:11 2006/09/05
💡タイトルを補うならばなんの自由もないアウシュヴィッツの生活にすらイエスという
ref. 📜強制収容所生活ですらその人生の意味に答えることが出来る
📚夜と霧の続編として捉えるならば, これはアウシュヴィッツ強制収容所のようななんの自由もないような生活においてですら, この制限しかない環境のなかでなにができるかに答えることだ.
Literature Notes
生きる意味がないということは、時代が宣伝したことなのです。原子爆弾の発明は、世界規模の破局の恐怖をはぐくんでいますし、一種の世界滅亡の気分が、二十世紀の終わりを占領しています。世紀末の雰囲気だけが敗北主義的だったのではありません。こうした世界滅亡の気分はすべて、その根底に宿命論があります。
しかし、そのような宿命論は克服しなければなりません。しかしこの場合、私たちはもはや、安易な楽観主義に立って、最近の時代に出てきた問題を簡単に無視することができません。わたしたちは、悲観主義的になったのです。わたしたちは、もはや進歩そのものを信じていません。いぜん、活動主義は、楽観主義と結びついていましたが、こんにち、活動主義の前提になっているのは悲観主義なのです。
私たちは、悲観主義にもとづいてしか、行動を起こすことができません。懐疑的な態度をとってはじめて、なおなにかしようと手を伸ばすことができるのです。こうした懐疑にも振り動かされないためには、生きる意味があるという信念がびくともしないものでなければならないでしょう。このような懐疑と悲観主義をも引き受けて担うには、私たちは、人間として生きている意味と価値を、絶対的に信じていなければならないでしょう。しかし、そのためには、やはり理想主義や熱情に訴えるしかないのに、現代は、あらゆる熱情が乱用されたあげく、ありとあらゆる理想主義が打ち砕かれた時代なのです。
この結果、すべての主義が、まったく信用を失いました。したがって、現代の哲学が、世界を、無から成り立っているかのように考えているのも、不思議ではありません。しかしながら、私たちは、このようなニヒリズムを通り抜け、悲観主義と懐疑主義を通り抜け、新しい人間性に、今こそ到達しなければなりません。最近の否定的なプロバガンダ、「生きる意味がない」と唱えるプロパガンダに反対して、別のプロパガンダを開始しなければなりません。このプロパガンダはそのつどそのつど、第一に個人的なものでなければなりません。第二に活動的でなければなりません。そうであってこそ、このプロパガンダは、現実的であることができるのです。
よく言われることですが、人間は楽しみのために生きているのではありません。生きるということは、ある意味で義務であり、たった一つの重大な責務なのです。幸せは目標ではなく、結果にすぎないのです。なぜなら、幸せとは思いがけず手に入るものにすぎず、決して追い求められないものであり、幸せを得ようとすれば、いつも失敗することになるのです。
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生が絶えずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。こう考えるとまた、どのような未来も怖くはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。どんな未来が私たちを待ち受けているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。
私たちは、人生の問いに答えることによって、その瞬間を実現することができます。ところで、人生が出す問いは、瞬間瞬間、その人その人によって、まったく違っています。ですから、生きる意味の問題は、まったく具体的なここと今において問われるものでなければなりません。
人生はたえず、意味を実現するなんらかの可能性を提供しています。ですから、どんなときでも、生きる意味があるかどうかは、その人の自由選択にゆだねられています。つまり、瞬間を意味のあるものにするかしないかの二社選択しかないということです。
私たちは、いつかは死ぬ存在です。私たちの人生は有限です。このことによって、なにかをやってみようと思ったり、時間を充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。そう考えると、どれだけ長生きするかということは、本質的にはまったくどうでもいいことだということがはっきりするでしょう。長生きしたからといって、人生はそれだけでは必ずしも意味のあるものにはならないのです。また、短い生涯に終わっても、ずっと意味のある人生だったかもしれません。以上のことからわかることは、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするということです。
大きくいって二つの考え方の可能性があると思います。どちらの可能性も反駁できないし、証明もできません。つまり、すべては結局まったく無意味だとも十分主張できます。同じように、すべてに大きな意味があるばかりか、そのような全体の意味、そのような意味の全体がもはやとらえきれないほど、「世界は超意味を持つ」(世界は意味を超えている)としか言えないほどの意味があるのだとも主張できるでしょう。そう、世界はまったく無意味だというのも、世界のすべてが有意味だというのも、同じく正当な主張です。まったくの無意味か、すべてが有意味かという決断は、論理的に考えると、根拠がない決断です。言い換えると、根拠が何もないということが、決断の根拠になるのです。人間は、もう論理的な法則からこの決断を下すことができません。ただ自分自身の深みから、その決断を下すことができるのです。どちらを選ぶかを決断することができるのです。
ただひとつのことははっきりしています。究極の意味、存在の超意味を信じようと決断すると、その創造的な結果が現れてくるでしょう。信じるというのは、ただ、「それが」真実だと信じるのではありません。それ以上です。信じることを、真実のこととするのです。というわけで、、一方の考え方の可能性を手に入れるということは、単にひとつの考え方の可能性を選ぶことではないのです。たんに考え方の可能性にすぎないものを実現することなのです。