努力してなにかを得ることができればいいが, 私の場合, ほぼその結果はその努力を打ち砕く形で終わってきた. 努力してなにかを得られる人は努力すればいいが, わたしはそうではない. 優秀でもなければ運もなく, したがって何十年経過しようがなにものにもなれない人間だ. わたしは絶望する側の人間だ. しかし, 絶望はわたしだけではない, われわれは滅びの世代だ.

しかし, わたしのパーソナリティとして努力というものがあり, もうあと先長い人生でもなく, いまさら教育で洗脳された努力信仰の価値観を手放さなくてもいいかもしれない. たとえそれが儒教洗脳であっても, それでいい. わたしはわたしでいい. それは受け入れる.

📜修証一等という禅語がある. 坐禅はうまくなりたいとおもうとうまくできずに, その心を手放すとうまくなる. 悟りを目指すのではなく, 仏であるということ自覚するという大乗仏教的な思想がある.

努力をするのではなく, 努力になる.

朝に晩に坐禅を習慣とすると, 努力すること, ひいては毎日生きることがこの仏教洗脳に自分が従うようになる. これを📝精進波羅蜜というのかもしれない. 儒教と仏教のつじつま合わせのこじつけ思想であることは自覚している.