📚我が闘争 - アドルフ・ヒトラー
角川文庫より. 🔖文学
大学生のとき落語がうまくなりたくて読んだ書籍.
Literature Notes
この不確かさは、ただ自己がこういう堕落の悲劇に対して責任があると感じていることにその根拠がある。しかしそれは、真剣なしっかりした決意を麻痺させ、そのため自己保持に一番必要な処置をとることすら動揺し、弱く、中途半端であるがため、そのようにしてしまうのだ。自分の責任であるという意識の陰影につきまとわれなくなったとき初めて、内心の落ち着きとともに、野草の芽を残酷にし、断固として刈り取り、雑草を引き抜く外面的な力を持つようになるのだ。
際限もなく多く「読む」人を私は知っている。しかし彼らは、自分にとって勝ちあるものと価値亡き者を選別する技術が欠け、さらにあるものはいつも頭の中に保持し、あるものはできるなら無視するというように、どんな場合でも無用なやっかなものを引きずっていくことをしないという技術が、欠けている。読書というものは、それ自身目的ではなく、目的のための手段である。第一に読書は、各人が自己の職業に必要な道具や資材を供給するべきである。しかし第二に、読書は一般的な世界像を媒介すべきである。だがいずれの場合にも読書は、そのときどきに読んだ内容が、ほんの記述の順序や、あまつさえ読んだ本の順序によってとどめられるのではなく、モザイク様の石のように、一般的世界観の中でそれらに与えられるべき地位に場所を占め、そして読者の頭の中にこの像を形成する助けとなることが必要である。そうでなければ、混乱が生じ、無価値であるばかりでなく、うぬぼれさせる。というのも、彼が実際に大真面目に「教養がある」と信じ人生に関して何か理解しており、知識を持っていると信じているからである。知れば知るほど、世間から遠ざかるにもかかわらず。今人生に、突然なんらかの検討や解決を要する問題があるとするならば、ただちに既存の観念の喜寿運をとらえ、そこからこの問題に関係している過去十年間に集められたここに役立つものをすべて引き出し、問題を解決したり、解決したりするまで検討したり、新しい検分をしたりするために、知性を提供するのである。読書は、そのときのみ意義と目的を持つのである。日々の生活経験は、いろいろの問題を常に新しく研究しようとする刺激になった。ついには現実を理論的に基礎付け、理論を実際で試そうという姿勢をとったため、わたしは、理論の中で窒息してしまったり、現実の中で浅薄化されたり売ることから免れたのである。
理論的文献の中の自由とか、美とか、品位に関するきらきら光る名文句や、見たところこのうえもなく深遠な知識を苦心惨憺して表現している大言壮語、いやみたっぷりの人道的道徳と、あらゆるウソと下劣さが混じった日刊新聞との間に、いったいいかなる区別があるというのか。
大衆の心理
大衆の心理は、すべて中途半端な軟弱なものに対しては、感受性が鈍いのだ。女性のようなものだ。かの女らの精神的感覚は、抽象的な理性の根拠などによって定められるよりも、むしろ足らざるを補ってくるる力に対する定義しがたい、感情的な憧れという根拠によって決せられるのだ。だから、弱いものを支配するよりは、強いものに身をかがめることをいっそう好むのである。彼らは破廉恥な精神的テロや、彼らが人間的自由を癪に障るほど虐待されていることにも気がつかないのだ。彼らは全教説に潜む狂気に決して気づかないのである。
最も重要な利害において、態度決定するために必要な知識を持っているものが二、三人しかいないのに、なぜ五百人も選挙するのか?今日の民主主義的議会主義の目的は、おそらく賢人の会議を形成することでなく、むしろ精神的に従属しているゼロに等しい群を寄せ集めることにある。個々人の人格的偏狭さが大きければ大きいほど、一定の方向へ指導することがますます容易になる。ただそうしてのみ、今日の悪い意味での政党政治がなされうるのである。
演説の意義
今日、文筆のたずさわる騎士やうぬぼれ屋はみんな、次のことをよく覚えておくがいい。すなわちこの世界における最も偉大な革命は、決してガチョウの羽ペンで導かれたものではないのだ!ということを。そうだ、ペンにはつねに革命を理論的に基礎付けることだけが残されている。だが、宗教的、政治的方法での偉大な歴史的雪崩をおこした力は、永遠の昔から語られる言葉の魔力だけだった。大勢の民衆は何よりもまず、つねに演説の力のみが土台となっている。そして偉大な運動はすべて大衆運動であり、人間的情熱と精神的感受性の火山の爆発であり、困窮の残忍な女神によって煽動されたか、大衆のもとに投げ込まれた言葉の放火用たいまつによってかきたてられたかであり、美を論ずる文士やサロンの英雄のレモン水のような心情吐露によってではないのである。だから偉大な目標を持つ運動は、幅広く民衆と関係を失わないよう、几帳面すぎるほど努力しなければならない。
概してどんな時代でも、本当に偉大な民衆の指導者の技術というものは、第一に民衆の注意を分裂させず、むしろいつもある唯一の敵に集中することにある。民衆の闘志の傾注が集中的であればあるほど、ますます運動の磁力的吸引力は大きくなるのだ。いろいろの敵を認識することは、弱い不安定な性格のものにとっては、自己の正当を簡単に疑わせるきっかけだけを作りやすいから、別々にいる敵でさえも唯一つの範疇に属していると思わせることが、偉大な指導者の独創力に属しているのである。
宣伝は手段
宣伝は手段であって、したがって目的の観点から判断されねばならない。それゆえ宣伝の形式は、それが奉仕する目的を援助することに有効に適合していなければならない。宣伝は永久にただ大衆のみ向けられるべきである!インテリには、宣伝は不要であり、学術的強化というものがある。しかし、宣伝はその内容上学問ではない。宣伝の課題は、個々人の学問的な形式ではなく、ある一定の事実、ある過程、必然性等に大衆の注意を促すことにある。そのためにまず宣伝の意義は、まず大衆の視野にまでずらさなければならない。その作用はいつもより多く感情に向かい、いわゆる知性に対しては大いに制限しなければならない。宣伝はすべて大衆的であり、その知的水準は、宣伝が目指すべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない。宣伝の学術的な余計なものが少なければ少ないほど、そしてそれがもっぱら大衆の感情をいっそう考慮すればするほど、効果はますます的確になる。
宣伝の技術はまさしく、それが大衆の感情的観念界をつかんで、心理的に正しい形式で大衆の注意を引き、さらにその心の中に入り込むところにある。大衆の需要能力は限られており、理解力は小さいが、その代わりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、その言葉によって、目的としたものが最後の一人にいたるまで思い浮かべることができるように継続的に行わなければならない。
大衆は相手の不正がどこで終わり、自分の不正がどこから始まるのか、そのとき判断する立場にはいない。そういう場合に彼らは不安になり、邪推したりする。民衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮よりもむしろ感情的な感じ方で考え方や行動を決めるという女性的素質をもち、女性的な態度をとる。しかしこの感情は複雑でなく、非常に単純で閉鎖的である。この場合繊細さは存在せず、肯定か否定か、愛か増加、正か不正か、真か偽かであり、決して半分はそうで半分は違うとか、あるいは一部分はそうだがなどということではない。
宣伝工作の独創性はすべて、いつも同じに基礎的原則が鋭敏に顧慮されなければ、成果は上がらない。宣伝は短く制限し、たえず繰り返すべきである。宣伝の分野こそ、耽美主義者や鈍感なものによって決して指導されてはならない。前者からは、その内容が形式上、表現上やがて大衆に通ずる代わりに、その魅力が文学的お茶の会向きになってしまい、後者は独特な新鮮な感覚がかけているために、いつも新しい刺激を求めてくるからだ。大衆は、ひとつのことについて知識をもとうという気になるまで、いつも一定の時間を要する。最も簡単な概念を何千回も繰り返すことだけが、結局覚えさせることができるのである。変更のたびに、宣伝によってもたらされるべきことを決して変えてはならず、結局はいつも同じことを言わなければならない。継続とその利用のむらのない統一性が成果をもたらすのだ。
不可能に見える要求や課題を満たすためには、民衆の全注意を、ただこの一つの問題に限って統一しなければならない。しかもその解決に実際、生死がかかっているかのように、注意させなければならない。征服しなければならない行程を、個々の段階に分割し、諸段階を計画的に、あらゆる力をきびしく集中して、一つずつ克服しようと努力しなければならない。目標に向かって近づこうとする、この努力は一つの技術だ。腐った肉体は輝かしい精神を吹き込んでも、全く美しくならない。ギリシャの美の理想を不滅ならしめたものは、すばらしい肉体の美と輝かしい精神と、最も高邁な心情との驚くべき結合である。
すべての若い同胞の教育や訓練は全体に、自分たちが他のものより絶対に優っているのだという確信を与えるようにはかれねばならない。
95%までは、若い頭脳が必要とせず、それゆえ忘れてしまうようなことは一般的に詰め込まれるべきでない。精神的な需要能力、思索能力、特に頭脳の記憶力の訓練だ、というのは一部正しい。しかし、重要性の多い少ないによって個々の要素がふるいにかけられたり、評価したりもできないような、多くの印象を横溢させることに危険がある。たいてい本質的でないものだけでなく、本質的なものを忘れてしまい、無駄になる。人間が若いときにたくさんの知識を詰め込まれすぎるために、その後これをもはや全体に忘れてしまっているか、あるいはまさしくその中の本質的なものを、もはやとっくの昔に忘れてしまっているならば、これは妄想になってしまう。
演説にさいし、敵の手からただちにその抗弁の武器を叩き落すことが重要である。どんな演説のときにも、討論の際に出てきそうな相手の異論の内容や形式を想定して、前もってはっきりとしておき、そしてこれをさらに自分の演説の中で、手回しよく残るくまなくやっつけることが重要である。出てきそうな反駁自体をいつもただちに挙げて、そしてその根拠の薄弱さを示すことが、その場合有効であった。
朝は・・・日中ですらもそうだが・・・人間の意志力は、自分と異なった意図や異なった意見を強制しようとする試みに対しては、この上ないエネルギーで抵抗するように思える。これに対して晩には、それらはより強い意志の支配に、もっと容易に屈伏するのである。
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