Biblio
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- 学校カウンセリング
- notes:
- 今は何をやっているのかわからないが昔は🎓フランクル心理学の著作をよく紹介していた.
- Youtube動画みたらちょっと🔖スピリチュアル色が強くて若干ひいた.
- いや、この人🎓トランスパーソナル心理学が専門なのか!
📚「人生に意味はあるか」- 諸富祥彦
講談社現代新書
こういう、形而上学的な答えではなく、ぼくはもっと具体的な答えが知りたいのだ。(06/6/12)
Literature Notes
人生の意味は, 自分で求めていくよりほかない. 自分ではじめて, “発見”した答えでないと, 納得できない. “答え”が見つからなければ, もう生きていけない, 死んでしまうかもしれない. そんなところまで, 自分自身を追い込んで, “本気で”求め続ける. それしか道はないのです.
「人生の意味は」は, 「知るもの」ではなく, 機が熟したときに「目覚めるもの」なのです. その真理と初めて出会うとき, それは「言語を絶した体験」としてやってくるのです. 求めぬく, 悩みぬく. このことによって, その人の心身のあり方に, 根本的で, かつ, 持続的な「変容」が生じてきます. そしてついに, 自我が破れて, 「真理の目覚めの体験」が訪れるのです.
その真理とは, 「いのちのはたらき」. まず「はたらき」そのものがあり, あるときは花, あるときは鳥, というように次々と異なる形を取っていくけれど, すべてはこの世界の一切が等しくそれであり, すべては「ひとつ」なのです. そして, この私も, 他ならない「はたらき」のひとつの形であるという真理に目覚めて生きるのです.
はたらきには, 使命が与えられています. 私たちは, その使命を果たし, 人生の意味の物語という, 「未完のシナリオ」を完成させなければなりません.
📚フランクル心理学入門 - 諸富祥彦
フランクル心理学入門 - 諸富祥彦 コスモス・ライブラリー
フランクルの思想がすっきりと理解できた。しかし、疑問もかなり湧いてきた。今日は疲れたので、日を改めて検討。16:51 2006/08/21
🔦どんなときも人生には意味がある。なすべきこと、充たすべき意味が与えられている。 - フランクル心理学
フランクル心理学の要点は, 一言で言えば, 次のメッセージにあります.
どんなときも人生には意味がある. なすべきこと, 充たすべき意味が与えられている.
それはこういう意味です. 「わたしたち一人ひとりには, 「なすべきこと」「充たすべき意味」が与えられている. そしてそれとともに, 今・ここに定め置かれている. そしてその「何か」は, わたしたちによって発見され実現されるのを「待っている」. わたしたちは, 常にこの「何か」によって必要とされ, それを発見し実現するのを待たれている, そういう存在なのだ」.
生きている限り, そのつど送り与えられてくるこの「なすべきこと」「実現すべき意味」に耳を傾けて, ただ淡々にそれに取り組み続けていくならば, そのときわたしたちは, いつの間にか, 自分の「いのち」が輝き始めていることに気づくことができます.
💡三つの価値の領域
💡フランクル心理学三つの価値の領域へ切り出した.
自分の実現すべき意味を探す指標として, フランクルは「三つの価値の領域」を提示する.
- 創造価値
- 何かを行うことによって, つまり活動し創造することによって実現される価値のこと. 具体的には, その人になされるのを待っている仕事, その人に創造されるのを待っている芸術作品.
- 体験価値
- 何かを体験することによって, つまり自然の体験や芸術の体験, 誰かを愛する体験によって実現される価値のことです. 真善美の体験や人との出会いによって, 世界から何かを受け取ることによって実現される価値であるとも言えます.
- 態度価値
- 自分自身ではどうしようもない状況, 変えることのできない運命に直面したとき, その窮状に対してある態度をとることによって実現される価値のことです.
Literature Notes
まず「私」を立て, 「私の幸せこそが一番大事」と考える「幸福主義」 (エゴイズム). そして, それと裏腹の関係にある「心のむなしさ」 (ニヒリズム) フランクル心理学はこれを超える原理となりうるのです.
「自分の存在が何の意味も持っていないという感情」「底なしの意味喪失感」. それをフランクルは「実存的空虚」と呼びます. 仕事だ勉強だと多忙な毎日を送る. たえず刺激と快楽を追い求める. 現代人の抗した多忙の背後に, フランクルは, 自らの内的空虚さから逃れようとする隠れた動機を見て取るわけです. 強い刺激を求めるあまり, 暴力や援助交際, はては怪しいカルト宗教に若者たちは引き寄せられていくのです. 国家的な目標喪失状態, 国家的な実存的空虚に陥っている現代の日本は, 自らを包むその虚無を覆い隠すかのように, 「快楽」と「権力」と「金銭」を盲目的に追い求め続けていきます. 自らの内的空虚を見つめずに済ませるための「感覚麻痺」の文化が蔓延しているのです.
幸福, 快楽, 自己実現, 健康, 至高体験・・・こういったものを追い求めても, それは必ず失敗に終わるとフランクルはいいます. そういった欲望は尽きるところを知らないからです. じゃあどうすればいいか. どうすることもできない. ただ, 幸福に対するこだわりを捨て, なすべきことに取り組むがいい. そうしているうちに然るべきときがくれば, おのずと幸福は手に入るはずだ, というのがフランクルの考えです. 「幸福は目標ではなく結果である」人の心が本当に満たされるのは, 自分や自分の幸福のことを忘れ去り, 自分のなすべきこと, 自分にとって意味あることに無心で取り組んでいるときであるということ, これは「幸福のパラドックス」として, 古くから知られていることです.
「意味への意思」は, フランクルが人間の根本動機とみなしたものです. 人間は, 人として生まれついたはじめからその生命の終わりにいたるまで, 「意味と目的を発見し, 実現せんとする基本的努力」をたえずくれ返していくものだ, とフランクルは言うのです. 権力や快楽を求めるのも, 自分は意味ある人生を送っていると思いたくても思えないから, そのような虚しさの感覚から逃げ出したいからなのだ.
人間は人生の意味を求めてはいけない. 人間は人生から意味を問いかけられている存在なのだ. 人生にはどんなときであれ, 「なすべきこと」「実現すべき意味」がなくなることは決してない. その人のことを「必要としている誰か」, その人によって「実現されるべき何か」が必ずあって, その人によって発見されるのを「待っている」. これはいかなる人にも当てはまる人生の真実であるのだ.
「すべては意味を持つ」と「すべては無意味である」という二つの考えを比べてみる. 論理的に考えれば, この二つの考えは, 等しく正当な権利を持っている. しかし, この二つの可能性のいずれかを選ぶ決断は, 論理的に考えると根拠がない決断であり, 根拠がないということが決断の根拠となるような決断である. (?) 人間はただ, その存在の深みからその決断を下すことができる. どちらを選ぶか決断することができるのだ. それは言い換えれば, 「信仰」である. 私たちはただ, すべては意味に満ちている, 超意味を持っている, と信じることができるだけである. しかし, それがどんな意味を持つのか, どのような意味ですべては超意味に満ちているのか. ・・・これらのことは一切, 私たちに知ることはできない. 究極の意味, 超意味は, もはや思考の問題ではなく, 信仰の問題である. 私たちはそれを知的な基盤でとらえるのではなく, 実存的な基盤で, 私たちの全存在から, すなわち信仰を通してとらえるのである.
📚<むなしさ>の心理学 - 諸富祥彦
- 講談社現代新書.
- 🔖虚しさ
かれはなぜそこまで、人生の意味にこだわるのだろうか?さんざん読者に恐怖感を与えて、自分と同じ苦しみを味合わせようとしているのだろうか。だとしたら、とてもいやなやつである。僕は人生の意味なんかなくったって、生きていける。意義は愛することによって生まれるのだ。人生を愛せよ! 19:02 2006/09/21
Literature Notes
とくに何かが足りないわけではない.
とびぬけて幸せだとは思わないけれど, とくに不幸せだとも感じない.
人並みには, 幸せな人生をおくれそうな気がしている.
けれどその一方で, 「何か」が足りない.
どこかむなしい. つまらない.
心のそこから満たされる「何か」が足りない, と時折ふと感じてしまう.
それなりには楽しいし, 充実もしている.
けれど, やはりそれなりにはつまらない.
そんな人生が, ただどこまでもくりかえされていく.
昨日も今日も明日も・・・.
それがずっと続いていって, わたしの一度きりの人生は終わってしまうのだろうか.
そんな風に考えると, 「これでいいのか」「人生ってこんなものなのか」と, ぼんやり不安を感じることがある.
あるべき「何か」がかけている気がする.
けれど, それがなんなのかよくわからない・・・.このような, 理由なき無気力や疲労感を訴える人が増えている. 自分で解決するしかないのはそうなのだが, 彼女の苦しみは, あれやこれやの「生きがい」を見つけることで解決するような類のものではない. 学生は疲れている. しかし, 何か意味のある仕事を終えたときのあの心地よい疲れではない. 自分のエネルギーをもてあましてどこにふりむけばいいのかわからない. 見えない何かに自分を押さえ込まれたまま, ただいたずらに時間ばかりが過ぎていく. そんな毎日を繰り返す中でエネルギーを奪い取られていく. そんなふうにして蓄積された慢性的な疲労感・倦怠感である.
社会との接触感のなさ, 自分はこの社会で必要とされているという意識の低さがその一因である.
かれは日本でも有数の一流大学の出身なのだが, 三十代前半の同級生が集まると, 人がうらやむほどの大企業に勤めている彼ら全員, 口をそろえて「できれば会社を辞めたい」と言うというのだ. 「企業としても, 個人としても, 夢や希望を抱くことができなくなっている. すっかり, くたびれ果てているんです」. 多くの会社員が, ますます自分の仕事に意味や希望を見出せなくなっている. そして十年近い勤務の中で, 自分が会社にとって「歯車」でしかない現実を見せつけられる. 無力感に打ちのめされ, どうしようもない「むなしさ」を感じて辞職に踏み切る. そんな二十代後半から三十代前半の人間が増えているようだ.
「こんなに豊かなのに, なにをいまさら耐えたりがんばったりする必要があるの. これ以上, なにを手に入れる必要があるっていうの. もういいじゃない. だったらもっと楽に生きていこうよ」. つまり若者たちの目に映っている世の中は, どこを探しても「ありふれた可能性」しか見出せない, そんな「まっ平な世の中」である. そして, どこまでいってもただ「ありふれた可能性」しか手に入らないのであれば, 「無理してがんばっても疲れるだけ出し, そこそこやっておくのが一番」ということになってしまう. ふわふわまったりの「脱力文化」とは, どこを探しても「輝ける未来」も「目指すべき目標」も見当たらない, そんな「まっ平らな世の中」で違和感を持たずに生きるために, 若者たちが生み出した「適応の知恵」なのである. 早々と人生を見切り, あきらめの早い若者たち. そんな彼らにも, たった一つだけ, どうしても大切にしなくてはならないものがある. 「友達」の存在である. 若者たちはもはや, 「恥」の意識を喪失している. そんな若者たちに唯一残された「規範」が, 「仲間」や「友達」との関係である. 携帯電話とは, 「輝ける未来」をたたれた「果てしない日常」の中で, 友達との「ささやかな幸せ」を教授するのを可能にしてくれる大切な小道具なのである.
人間の本性には, 何かと確実につながりたいという衝動が潜んでいる. 増してや若者の衝動は激しい. その衝動を振り向ける何かを求めずにいられない. しかし今の世の中では, そのターゲットが見つからない. だからエネルギーが内向する. 若者たちは「とくに楽しいわけではないけれど」ただ仲間とたむろする心地よさに浸っているのだ. 「終わらない日常」とは, 男が男らしくあるために必要な何かを「剥奪された」世の中である.
オウムにひかれた若者の心情は, 「管理社会に埋没するのがいやで, 自己実現の場を求めて」, 「心の空白を生める人間としての『生きがい』を求めて」である. オウムにはよく理系のエリートが多いといわれる. 彼らはおそらくその過程のどこかで大きな挫折感を味わっている. 中学, 高校, 大学と秀才街道を走ってきた彼らも, 修士課程を終え学会発表をするころになると, 自分の無力さを痛感させられる. 自分が他の誰かでもこなすことのできる研究を担当する「歯車」にすぎないことを実感させられるのだ. 「自分はなすべきことがある」という使命感は, 私たちの生きる意欲を強く掻き立ててくれる. だからそれを剥ぎ取られたものはつらい. ある脱会信者は, 教団の教えが偽りとわかった今でも, 強い空虚感に苛まれ苦しんでいるという. たとえ幻想でもいい, 自分を満たしてくれる何かがほしい. 生きる目的が, 使命がほしいと訴えている.
ある欲望を満たしたと思ったとたん, 必ずすぐに次の欲望が生まれてくる. もっともっと, 必ず何かがほしくなる. だから, いったん自分の「幸福」を求め始めた人間は, どこまでいっても心のそこから満たされることはない. 「何かが足りない」「どこか満たされない」という欠乏感をどこかで感じてしまう. このように, 人間の欲望はそれ自体, 際限のないものである. 欲望の際限のなさは第一に, 人間の欲望それ自体の持つ本質的な性質である. それに加えて現代社会とは, 「必要を離陸した欲望」の無限空間を開くことによって, 市場を自己創出する力を獲得した社会なのである. あふれんばかりの情報によって次々と作り出されていくわたしたちの欲望は, まさに「必要を離陸して」しまっており, だから際限はない.
<実感> 自分の内面に巣くう「むなしさ」を見つめる. 「どこかむなしい」「なにか足りない」といった心のつぶやきと, そのメッセージとに耳を傾ける. <懐疑> 自分が「当たり前」と信じており, その生き方の前提となっている諸諸の考えを, それは本当に「当たり前」か, その根拠はどこにあるのかと疑っていく. <離脱> 周囲の人々や世間との内的なつながりを断ち切る. 自分がそれまで, それに慣れ親しみ, そこに内属し, その内部で生きてきた生活世界からの離脱をはかる. <探求> 自分の新たな生き方, これが<本当の生き方>だと思える生き方を, 自分自身, 真に納得の感覚が得られるまで, どこまでも問い求めていく. <限界> しかし, <本当の生き方>はどれほど求めても求まらない. そのため自ずと, 如何ともしがたい窮地に追い込まれていく. <覚醒> しかしその極限で, ついに力尽き倒れたとき, 不意に人間存在の真実を, いわば「向こうから」つげ知らされる. 自己本位のあり方に目ざまされるのである. <自覚> こうして目覚めた自己本位のあり方と, その意味と構造とを, 言葉ではっきりとつかみ出す. 明らかな自覚と了解へともたらす. <反復> その本来的あり方をすこしでもわが身に定着させるには, 日常生活の中でそれを何度でも反復しつづけなくてはならない.
この哲学的自己探求のプロセスにおいて, 最も重要なのは, とりわけ次の三つの原則を貫徹することだ. 第一の原則は「懐疑」の徹底である. 自分の今の行き方と, その前提になっている諸諸の考えとをどこまでも疑っていく. それと同時に, それまでの生活様式から離脱しなければならない. これが第二の原則だ. 自己変革を真剣に望む人は, 日常の生の流れを停止させ, 自己と世界とのつながりを断ち切って, 通常の生の軌道からいったん完全に下りてしまわなくてはならない. するとそこに, 世界で共有されている時間の流れから隔絶された, 内的な<真空地帯>が作り出される. そこで自分の新たな生き方, これが<本当の生き方>だと思える生き方を, 真に納得の感覚が得られるままでどこまでも問い求めていくこと. これが第三の原則である. しかもそこで定めた新たな生き方は, 毎日の生活の中で一つ一つの行為の中で, 実地に検証されなくてはならない.
文学でも芸術でもいい. 音楽でもスポーツでもいい. 要は, 自分が本当に求めているなにかを「どこまでも徹底的に求め抜いていく」こと. 妥協のない<求め>の徹底が, 真の自己への目覚めの道なのである. なぜか? それは, どこまでも求め抜いていく過程で, その人のエゴ, 自分や自分の人生を思い図るエゴの力が次第に弱まっていく. そしてついにそれが消えうせたとき, そこに真の自己が自ずと現れ働き始めるのだ. 「自分ではないなにか」が働き始めるのだ. わたしは断言していいが, たとえいっさいを失ってもかまわない, そんな覚悟をしてなにかを求める人だけにわかるある境地が確実に存在する. おそらく, この境地が, そしてその境地にいる自分への気づきが, 「無我」とか「真の自己の目覚め」とよばれるものなのだ. 学問でも芸術でも趣味でもいい. 「自分」が溶けてなくなるまでなにかを真剣に求め続けた人にとって, この境地はいつでもそこにあるものである.