間違ってる気もするのてあとで修正か削除するけど現在の解釈.
悟りの境地とかはたいしたものではなく, だれでも体験している. 自己が消えた状態, 無我の状態がわたしの現在の悟りや仏の解釈.
すると, 誰だって数秒ならば悟ることなんて日常的にやっているのだ. あくびをしたりおならをしたりしながら誰でも悟っている. 難しいのは悟り状態をキープすることで, この難易度が高いからこそ, 修行をするのだ.
さらにいえば, そんな悟りの境地はヴィパッサナー瞑想からすればやっとスタート地点に過ぎないし, ヴィパッサナー瞑想の前に慈悲の瞑想や呼吸瞑想によって心を鎮める=悟るのは, スポーツの前の準備運動に過ぎない. ヨガのポーズも単なる体操.
悟り自体を重要視しない, 神秘体験ではない. 念仏も坐禅も心を鎮めるための便利なフレームワークに過ぎない.
おならぷうで即身成仏.
🔗References
- 🔦ヴィパッサナー瞑想において禅定は最終目的ではなく踏み台に過ぎない
- 📜となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして - 一遍
- 📝諸法無我
- 📚あくび指南
- 🎓賢者タイム
- 🔷亀の湯で湯けむりの中で悟りを得た(2023/07)