すでに安定した地位や才能あり、それでも努力をする人は力が奪われる. これは嫉妬とそれに伴う自分の相対的な無力感に関わる.
一方、若い人や不遇な人が頑張っていると、自分も頑張ろうと思う. これは合理的というよりも、本能的ななにかがあるのかな?
そしてさらにいえば、不遇でも自分の努力が他人に力を与えるという真理が、その人自信にも力を与える.
<2025-02-01 Sat 11:00> 稼ぐという才能に恵まれた視点から抽象化してみた.
他人がいくら稼いでも力を奪われるが無謀に挑戦する人から力を与えられる
他人がいくら稼いでも、それは単に自分の無力感が大きくなり、力が奪われる.
一方で、たとえ稼げない未来が待っていたとしても、それに挑戦する姿をみるほうが、わたしは力を与えられる. 数年間芸術家を目指してその結果なんにもならなかったとしても、わたしは失敗しようが成功しようが、その態度に感動する.
力が与えれる場合もある. その人の背中をみてよしぼくも彼のようになろうと思える人には力が与えられる. そしてそのような人は多数派.
わたしの趣向は少数派. これは倫理ではなく、わたしの価値観、趣向なのかもしれない. ここに一般的な良し悪しはない. そして、失敗した結果やその悲しみを自分は体験しないからかもしれない. なぜ人は悲劇に感動するかというと、それは舞台の上で行われていることで、わたしは舞台の外にいるからだ. 当事者ならわたしも億ほしい.